【ADHDの偉人】パブロ・ピカソのゲルニカはADHDだからこそ生まれた説

今回はパブロ・ピカソの話します。

 

みなさんゲルニカって見たことありますか?

あれ、ヤバくないですか。

めちゃくちゃカッコいいっすよね。

 

見るものの心を、有無をいわさず揺さぶり尽くしてきます。

 

芸術家ソーシャルゲームとかあったら間違いなく激レア星6ですよね。

 

芸術家ソーシャルゲームってなんやねん、って話なんですけどもw

 

 

さて、

パブロピカソというのは実はADHDと言われているんですね。

あの『ゲルニカ』は実はADHDであったからこそ生まれたモノと捉えられるわけなんですが、

 

・その理由

というのを今回の記事ではお伝えするとともに、

 

自らが悩み苦しんだモノというのが、

必ず社会というか世界にとって価値があるモノになる

 

ということを肌で感じてもらえる記事になると思います。

 

それでは早速、

ピカソがADHDだったと思われる証拠のひとつである、『彼の言葉』

 

というのを1つずつ斬っていきたいと思います。

 

 

”ピカソにとって長すぎた一時間”

 

まず、これ。

 

 

『せっかちな自分にとって一時間は永遠と思えるほど長かった。』

 

ADHDというのは、基本的に退屈に耐えられないんですよね。

 

それは、なぜか。

 

集中力がないからです。

 

集中力がないからといって、なぜ退屈に耐えられないの?

 

という話なんですけど、

 

それを説明するには、

まず「時間の感覚」というものについて話さなければなりません。

 

ここだけでは書ききれないので、また記事を新たに作ろうかとは思っていますが、

 

簡単に説明します。

 

『時間というのは、「集中力」の高さに比例して短く感じられる』

 

ということです。

 

一度くらいは体感したことがあるんじゃないでしょうか。

 

簡単にいえば「楽しい時間は短く感じ、辛い時間は長く感じる」ということです。

 

・旅行に行ってるとき

・遊園地に行ってるとき

・仲良い友達とカラオケに行ってるとき

・大好きな彼女といるとき

 

こういうときは時間感覚というのはかなり早くなり、

時間が短く感じるんですね。

 

「ああ、もう帰る時間だ・・一瞬だったね。」

 

なんていうことになるわけですね。

 

反対に、

 

・おもんない授業中

・アルバイト中

・誰かから説教をされているとき

 

なんかは、「時間なげぇぇぇぇ!!」と思いながら何回も何回も時計をチラ見しますよね?

 

これは、もう一人、発達障がいと言われているあのアインシュタイン氏も言及しています。

 

熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。
まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。
ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、
一分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性というものです。

 

はい。

 

あ、くれぐれもストーブには手を載せないでください。

想像したい方は、カイジの「焼き土下座」のところを読んでみるといいでしょう。

 

さて、この考え方を少し発展させます。

 

辛い時間と楽しい時間でいったい何が違うんでしょうか。

 

それこそが「集中力」なのです。

 

楽しいことには誰だって”集中”するわけです。

 

つまり、

 

楽しい=集中している

 

と言い換えられるわけですね。

 

そこでADHDについて考えてみると、

 

ADHDというのは注意欠陥多動性障害というものであり、

 

注意欠陥・・・つまり「集中力」に難があるという特性をもっています。

 

さっき言った通り、

 

「集中力」が維持できない状況=辛い状況=時間が長く感じる

 

となります。

 

つまり・・・

 

ADHDは常に集中力が維持できない=常に時間が他の人より長く感じられる

 

常に、時間が長く感じる・・・

 

 

・・・恐ろしいことが明るみになりましたね。

 

 

私も旅行の行きしなの車中とかってめちゃくちゃ辛かったです。

 

「いつ着くんだよ」

 

と心の中で何回も思いめぐらし、たまに口から実際に「いつ着くの?」と出てました。

 

ていうか、人生全般においてそう感じてきました。

 

今31歳なんですけど、「まだ31歳なのかよ!!」ってよく思います。

 

私のことはさておき・・・

 

ピカソ自身は「せっかち」と称していますけど、

これはほぼ間違いなくADHDの要素をピカソがもっていたことを

 

如実に物語っているセリフなわけです。

 

つまり、ADHDの人は定型発達の人よりもはるかに

 

「楽しく思える状態を欲している」

 

ことになります。

 

だって、

ずっと時間が長く感じるってめっちゃ苦痛やん!!

 

ってなりますよねふつうに。

 

つまり、

常に『それめっちゃおもろいやん!!』

っていう感覚でいないと、耐えられない。

 

ちょっとでも、『やらなければならない』という義務感みたいなのが混じっていると、

退屈になり、「時間が死ぬほど長く感じられて」、

 

 

もう無理!!!

 

 

ってなります。

 

おそらく、ピカソも、

 

ほんまに心からおもろいことっていうのを常に求めていたんだと思います。

 

 

 

 

次に、この言葉。

 

『注意を集中することにどんなに僕が苦労したか、君には想像できないだろう。注意を集中しようと思っても、別の考えに惑わされて混乱してしまうのだ。』

 

 

 

注意欠陥っていうのは、

 

・物事に注意をロックオンするのに時間かかる

 

それにプラスして、

 

・ロックオンしたはずの集中がすぐに外れる

 

っていう特性やと思うんですけど、

 

それゆえに注意があちこちに転移して、
多動性につながる。

 

この原因としては、

 

・身体感覚の異常(聴覚過敏や視覚過敏)であるとか、

・脳機能の障害であるとか、

 

いろんな原因があると思うんですけど。

 

特に刺激の強い何か。

例としては、酒、セックス、タバコ、麻薬、スマホゲームのガチャ、ギャンブルとか。

そういうのって注意を向けやすい。

依存症に陥りやすいのは、注意を簡単に向けられるからです。

 

逆にいえば、常に、

 

”刺激”に注意を奪われる

 

ということです。

 

・彼女と喋っているのに、横をかわいい女の子が通り過ぎればすぐにそちらに目を奪われたり、

・宿題をやらないといけないのに、窓の外の雑音に注意が途切れたり、

・急に今日の晩御飯が気になってしまったり・・・

 

そういう注意散漫な状態がずーっと続いている。

 

テレビをパチパチパチパチチャンネル変えながら見てみてください。

 

なんか落ち着かないですよね?

 

そんなような感覚を常に味わっているわけですね。

 

「目に映るモノがめまぐるしく切り替わっていく」

 

こんな中でADHDの人は生きているわけです。

それはおそらくピカソも例外ではなかったんでしょう。

 

 

 

子どものように描くのに一生かかった。

 

そして、最後にこの言葉です。

 

子どものように描くのに一生かかった。

 

私が一番好きな言葉です。

 

私たちは子どもから大人になるとき、憧れなんかを原動力にして

自分とは違う何かを目指します。

 

・かっこいい大人に憧れて、背伸びしてみたり

・キレイな女優に憧れて、大人ぶったメイクをしてみたり

・お父さんに憧れて、働いてるごっこ遊びをしてみたり

・渋いおじさんにあこがれて、雑誌「レオン」を読んでみたりw

 

それは成長の過程として当たり前のことです。

 

完成品としてのサンプルは周りであったりテレビや雑誌の中の大人しかいないわけですから。

 

 

でも、

 

「子どものように描くのに一生かかった。」

 

というこの言葉からはピカソは、そうじゃなかったと分かります。

 

少なくともこの言葉を言った前後のピカソは誰にも憧れていなかったわけです。

 

大人が描く写真のように正確な絵は、ピカソにかかればもう余裕で幼少期に出来てしまった

 

そこでなぜか彼は「子どものように」描きたい、と考えたわけです。

 

子どものように

 

ということを言いかえれば、

 

「ありのままの素の自分」とも言えます。

 

人は大人になるにつれ、「周り」の人間に合わせて自分をカスタマイズしていきます。

 

・周りの人たちから仲間はずれにされないように・・・

・嫌われないように・・・

・社会人として立派にならなければ・・・

・周りの大人がやっていることがおそらく正しい・・・

 

そんな気持ちでもって、子どもという素の自分を「大人の世界」に合わせていく。

 

でもピカソは、そっちの道・・・「自分を大人に似せる」という道を否定したんです。

 

そうではなく「子どものように」描くことを追求した。

 

ここには人が生き生きと輝くための真理が詰まっているんです。

 

ちなみに、ADHDというのは「子ども時代」の方がその特性がより顕著に現れます。

 

じっと座ってられずモゾモゾしてる子どもって多いけど、

大人で椅子に座ってモゾモゾしてる人ってあんまり見ませんよね。

 

なだらかに、程度に違いこそあれADHDは成長につれて穏やかになっていきます。

 

ピカソが「子どものように」描くことを意識したということは、

 

ピカソは”よりADHDの特性が強い時期の自分”のように描こうとした、

 

とも言えるわけですね。

 

 

 

さて、少し話は変わりますが

 

そこから、彼は試行錯誤を重ね、

 

一見下手くそに見える「キュビズム」というものに至るわけです。

 

もちろん冒頭で話した「ゲルニカ」もこの手法がふんだんに取り入れられています。

 

まあキュビズムについてはご存知やと思いますが、一応説明しておくと

一つの視点からではなく色んな角度から見たように、一つのキャンパスに描く。

ってやつですね。

 

真正面から見たように「両目」があるのに、

「横から見た鼻」がついていたりするヤツです。

 

ここまで読んできて何かに気づきませんか。

 

 

 

彼はADHDの特性により、

「どんどんと切り替わるテレビのチャンネルのように」、

「目に映るモノがめまぐるしく切り替わっていく」世界を生きていました。

 

そして、彼は

「子どものように描くこと」

言いかえれば、

「ADHDの特性がより顕著であった頃のように描くこと」

を一生かかって目標としていたわけです。

 

 

これはつまり、

 

 

キュビズム = ADHDの世界の見え方をキャンパスに表現したもの

 

ということです。

 

 

一つのものに注意を向けられないがゆえに視界もあっちゃこっちゃ向くんですよ。

彼は子どもの頃から世界がそう見えた。

子どものように描くことを突き詰めて、彼はその頃の自分の見え方を、作品にした。

 

それがピカソのキュビズムだということです。

 

ただ、ここで勘違いしてはならないのが、

ピカソは「子どものように『描く』のに一生かかった」と言っています。

 

つまり「子どもに戻ることに一生かかった」わけではなく、

あくまで「描く」というところに非常に大切な含みがあるわけです。

 

描くという言葉には「見てもらえる」という含みがあります。

見てもらえないのならば、その絵には価値がないからです。

 

子どものの頃の見え方なんて、「ただのこども」がもう無数に、やりたいように描いているわけですよね。

 

それを大人である、しかもものすごく絵を勉強した大人であるピカソが

 

改めて、

人に見てもらえる=価値を感じてもらえる作品として、

 

表現した。

 

これこそが彼の偉大さなわけです。

 

 

 

まとめ

 

今回、ピカソの言葉を抜き出しながら、

 

・ADHDという特性にピカソがどれだけ苦しんだか。

 

そしてそれをキャンパスに表現したものこそが「キュビズム」であり、

その集大成として『ゲルニカ』は

ピカソの死後何年も、世界中の人の心に何かを訴え続けている。

 

そのときに彼がやったことが、

・「子ども(自分のありのままの状態)のように」

・「描く(人に価値を感じてもらえるように表現する)こと」

 

それに彼は一生をかけた、

 

ということをお伝えしました。

 

 

このことから、「発達障がい」という自分のありのままの姿に苦しんだ人というのが

その価値を見出し、表現することがいかに素晴らしいのかということが分かります。

 

それは、ピカソに才能があったことにももちろん理由はありますが、

私は誰にでも「自分のありのまま」を「価値に変換」する努力を怠らなければ

世界にインパクトを与えることを成し遂げられると思っています。

 

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今回は以上です。お読みいただきありがとうございました。

 

 




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