何か始めても、意味がないと感じた途端にやめてしまう・・

ゼロか100かで物事を考えてしまい、その間をうまく取れない。


こういった悩みはなかなか解決せず、辛いですよね。

この記事ではゼロ100思考に効くであろう書物「歎異抄」について、
その良さを書き綴っていきたいと思います。

ゼロ100で物事を考えるのはしんどい

「筋トレって自分のQOLにとって、良いことしかないじゃん!」

「読書の習慣をつければ、人生変わるくね?」

「あいつが言ってることは絶対間違っている!」

「応援していたけど、あんな発言を許せるわけないな・・ファンやめよ」

などなど、ゼロ100思考の考え方はたくさん挙げられるんですが、昨日「白」だったのが突然「黒」になるような、高低差の激しい考え方っていうのはやっぱり精神的に負担が大きいですよね。

私自身、そういったゼロ100思考に振り回されてしまい「結局自分の軸ってなんなんだろう?」と悩んだ数は100回を越えていると思います。

間を取れば良いのはわかるけど

仏教には「中庸」という考え方があります。間を取れることこそ、真にその物事に対しての理解ある態度である・・・というようなニュアンスです。

いわゆる「グレー思考」なども近い意味かなと思いますが、

そういった間をとった考え方ができれば、他人に対しても寛容になれるだろうし、自分に対しても優しく許せるようになるであろうということは、何と無く理解できますよね。

でも、こういった中庸のような考え方は、私たちにとってかなり実現するのが難しい思考であるということを言わざるを得ないのです。

発達障害の特性

実は、発達障害の特性の中には「ゼロ100」になりやすい要素がいくつかあります。

・単純明快にとらえたい

発達障害の人はマルチタスクが苦手と言われています。

多くのことを並列させて同時に扱うのが難しいんです。

Aさんはひどい頭痛に頭を悩ませていました。

あるとき耐えきれずに医者にかかったとき、薬を処方されました。

しかし、「薬には副作用があって服用した人のうち何人かはキツイ副作用が出るようだ」と医者から言われました。

Aさんは「副作用がある」ということに恐怖を感じてしまい、薬の服用を避けてしまいました。

この場合、Aさんは

  • 薬をのんだ人のうち何人が副作用が出るのか
  • 副作用の種類はどんなものがあるのか
  • 薬で得られるメリットと副作用を比較した場合、どうなるのか

などを同時に考えることができず、薬を服用すること自体を放棄してしまったのです。

こうなってしまったのは、もちろん理由は1つだけではありませんがマルチタスクが難しいという特性が影響していると考えられます。

・脳のキャッシュメモリが少ない

キャッシュメモリ、というのはコンピュータでいうところの「一時的にデータを保存しておくところ」という感じです。使ったデータはキャッシュメモリからすぐに削除されます。

何か作業するときの、テーブルの作業スペース以外のスペースみたいなイメージでしょうか。

このキャッシュメモリが発達障害の人はあまり広くないことが多いです(個々にかなり差があるので一概には言えませんが)。

それゆえに、「あれも、これも、それも」という具合に色々と同時に頭に置いておくことができません。

その結果、シンプルないくつか(1つとか、2つとか)の方針しか頭にとどめておけないというわけです。

「歎異抄」とはどんな書物か?

ここからは、そんなゼロ100思考を改善するための処方箋となる(のではないかと私が信じて止まない)書物「歎異抄」についてお話ししたいと思います。

9歳で死ぬのが怖くなった親鸞

歎異抄は、浄土真宗の開祖「親鸞」の教えを間違った風に解釈したり、悪用したり、その教えの解釈で揉めて仲違いしたり・・・

親鸞亡き後、増え続けていた、上のような人たちに対して残念に感じた、親鸞の教えを直に受け取った弟子である「唯円坊」という人が記しました。

親鸞の真意(というか浄土真宗の教義)を考えるためのいくつかの話で構成されています。

・親鸞が仏門に入った時のエピソード

9歳だった親鸞は、「死」の恐怖でとても苦しんでおり一刻も早く出家して、お坊さんになって修行しなければと考えました。

この時点で既に、普通の子どもじゃなさすぎるわけなんですが、とにかくそこから頑張ってお坊さんとしての修行に励みます。

でも、煩悩が全然消せなくて、修行に挫折してしまった親鸞。その後、法然という人物(浄土宗の開祖)に出会い、救われたと感じるようになります。

悪人正機と他力本願

そんな親鸞が開祖となった「浄土真宗(いまから話すのは浄土宗とも被ってたりして区分がむずいですが)」なんですが、教えはかなりシンプルです。

ちなみに僕の実家も浄土真宗です。葬式とか法事とかでは基本的に「な〜むあ〜みだ〜ぁんぶ〜」(阿弥陀仏に帰依します的な意味)と繰り返し唱えていくスタイルです。

教えの中で特徴的なのは2つあります。

それが、「悪人正機」「他力本願」です。

・悪人ほど救われる。

親鸞は、

「善人ですら救われるんだぜ?悪人ならそりゃ言うまでもないよね?」

的なことを言っています。

「いや、そんなわけなくね??笑」

っていう反応が普通というか、当時の人たちもそんなリアクションになりがちだったわけです。

ざっくり説明すれば、

『阿弥陀仏が起こされた「本願」は、そもそもさ、煩悩にとらわれてしまい苦しむ人たちを救うために打ち立てられたもんだよね。善人というのは、自分で善を積んでなんとか極楽浄土に生まれ変わろうと頑張っているんだけど、悪人はもともとそういう自力での努力もしない人たちだから、むしろ最初っから、阿弥陀の本願に叶っている人たちなわけだよ。ラッキーじゃね?』

まぁ、阿弥陀仏の本願なるもんがホントにあるのか?っていうのは仏門ではない人たちにはちょっと疑問があるところかとは思うんですが、親鸞はそういう意図で言ってた(と唯円坊が言ってます)わけですね。

(この説明も僕の解釈なので、唯円坊とか親鸞からしたら多分お前勝手に変な解釈広めんなや!っていうことになるかなとは思うんで適当に聞き流してくださいね)


・自力ではなく他力に頼ろう。

そして、もう一つが「他力本願」ですね。

これもでも、悪人正機に似てます。またざっくり現代風にいえば、

「自分で頑張って善をなして、頑張って極楽浄土に生まれようっていうのは、エライ坊さんだけやっとけばいいんやで。てか、僕らみたいに煩悩まみれの人たちはどう頑張ってもそういう努力とかって、無理なんよ。実際やってみたけど、僕、親鸞にはできなかったのよ。煩悩を消そうとしてもどうしても消せなかったのよ。でも、でもさ、阿弥陀仏が、阿弥陀仏ほどの悟りきった素晴らしい人が五劫(ごこう)っていう気が遠くなるくらいの時間をかけて打ち立てた本願っていうのは、僕らみたいな煩悩まみれの人間を救うためなわけじゃないですか。それって、ほんま死ぬほどありがたいことじゃないですか?だから、阿弥陀仏が作ってくれた「南無阿弥陀仏」という誰でも唱えやすい念仏を唱えさせていただくだけで救われるんですよ。」

って、いう感じです。親鸞に親近感持たせすぎの感もあるんですが、親鸞のキャラクター化も方便、ということでお許しください。

ちなみに、親鸞は結婚してます。この辺のエピソードもすごい良いんですよね。またぜひ読んでみてください(歎異抄には書いてません)。

教えを利用したり曲解する人たち

・いかに一つの考えが曲がり得るのか

で、その親鸞の教えを、親鸞が死んだ後、みんなヤーのヤーの言うわけです

「おい悪人の方が救われるんやったら悪いことしまくろうぜ!」

とか言い出すやつとか

「悪人が救われるのを頼りにして悪いことをしたヤツらは救われないんだぜ?」

とか言い出すやつとか

「極楽に行けるようになるための念仏を、いくら唱えても、全然早く死んで極楽に行きたいと思えないんですけど??」

とか言い出すやつとか。

もう他にもいっぱい出てきました。

それをみて、唯円坊は嘆いたわけですね。「おい、お前ら良い加減にせえよ」と。。。

それで、「親鸞となることを言っているやつらをく」と言う意味を込めて歎異抄を残したわけです。

どんなにシンプルな教えであっても多角的に捉えられる

この歎異抄には、1つのすごく簡単でシンプルな教えであっても、人によって全然解釈も変わるし、それを利用するやつも現れるし、時間の経過でちょっとずつ原型がわからなくなって行くし・・・って言うのが感覚的にわかるような話が詰め込まれています

あとはまぁ本書を読んでみてもらえたら、と思います。

では今回は以上です。お読みいただきありがとうございました。

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